拝観

  1. ホーム
  2. 拝観
  3. 国指定名勝 東福寺本坊庭園 のご案内
  4. 概要と由来

00000

東福寺本坊庭園のご案内

 
概要と由来

沿革

昭和14年6月27日~11月11日に作庭。昭和11年~13年末までの3年間の日本全国古庭園実測調査を終え、日本庭園史図鑑全26巻を発刊した直後の作品で、従来の日本庭園の意匠形態にはない、独自の新しい発想のもとに作庭された庭園である。各時代全ての庭園意匠を見てきた直後の作品だけに、全てにおいて意欲的な作品に仕上がっている。
本庭の意匠が画期的な形態となった大きな要因が、作庭にあたって唯一の条件として提示された、本坊内にあった材料は、すべて廃棄することなく、もう一度再利用するということであった。これは禅の教えである「一切の無駄をしてはならない」から提示されたことで、これによって三玲の設計は、ある意味において、かなり厳しい制約が課せられたということになる。しかしながら、これらの制約があったからこそ、逆転発想で、日本文化の伝統的な意匠である市松模様が生まれたり、また東側の庭園に見られる北斗七星を表した構成が誕生したのである。まさにリサイクルではあっても、そこに作庭された空間は、従来までの日本庭園からは考えられないほど斬新な庭園が生まれたのである。このような結果となったのも、制約された中の美を最大限に追求した結果であり、禅の修行をしたことのない三玲が、必然的に禅の境地に入る結果となり、まさに不思議な因縁を感じる次第である。

庭園概要

本庭の設計をするにあたって、最初から現在のような庭園設計をしていなかったことが、彼の残した資料などから知ることができる。
最初の計画では、いくつかのラフスケッチが残されており、六方石のような石を組んだ、三玲の郷里の近くにある自然の渓谷で「豪渓」のような景色を伴った意匠も考えていたり、また枯流のようなものを取り入れたりなど、興味深い計画案存在している。そして現在の神仙島石組と京都五山による苔山の意匠形態ができあがってくるのであるが、当初の彼の意図では、現在とは位置を逆に計画したていた事が、彼の書き残したものから知ることができる。当時は、方丈から向かって右側(西)に老木の松が二本あり、これを移植して左側に持っていこうと計画していたのである。ところが移植にかかる費用や枯死するおそれのあるリスクなどから、爾以三師などに強く反対され、結局、現在の姿になった経緯がある。
本庭は、東、南、西、北と、方丈を中心とした四方に作られ、それぞれの表現が異なる設計でありながら、全体のストーリーが繋がるような構成となっている。

見取図

しかもその構成は、日本庭園における伝統的な様式(枯山水)、手法(蓬萊神仙思想の表現)、意匠(市松模様)などを用いながら、設計されていることがわかる。
四方向に作られた庭園に込められた意匠構成は、東庭が「北斗七星」、南庭には四つの神仙島、京都五山、須弥山、西庭は井田を表した大市松模様、北庭が苔と板石による小市松である。西と北の意匠は市松ということで一つの意匠構成として考えられていたことが、作庭直後の昭和14年12月の京都林泉協会会報誌に書かれていることからわかる。北斗七星、蓬莱、瀛洲、壺梁、方丈、京都五山、須弥山、市松の八つの意匠を盛り込み、これが釈迦の入滅を表す「釈迦八相成道」にもあたることから、「八相の庭」と名付けられた。
以下は各々の庭園様式について纏め上げたものである。

重森三玲の想い

庭園を作庭していくことは、そこに作るという創意工夫を施すのであれば、古典には用いられていない、また誰もおこなったことがない新しい要素を取り込むことは重要なことである。しかしながら、それが独りよがりの意匠に走ってしまい、そこに思想性、哲学感、芸術性が感じられないのであれば、そんなものは作る必要性が無い。ところが三玲は、創意工夫をする際に、日本の伝統を知り尽くしたからこそ、次なる一歩が踏み出せたのである。これはどんな分野であっても同様であり、しかもその知るという行為は、幅広い視野を持ってあらゆる伝統文化の美を掴んでいってこそ、初めて新しいことができるのである。三玲はこのような下地を、学生時代から着々と積み上げてきた。だからこそ彼の新しい創作が、日本的なことから逸脱してしまうようなことを徹底的に避けながらも、新しい創作をとことん突き詰めた結果、本庭の作庭が、「現代の古典」となって成功した最大の要因であるといえる。正に終生の目標として掲げ、目指した「永遠のモダン」の始まりであり、彼の作品作りの基点になったのである。