東福寺本坊庭園のご案内
東庭のこと
本庭の拝観は、先ず庫裡から進んでいく。程なくして庫裡と方丈を結ぶ渡廊下があり、そこで大抵の拝観者は左方向を見てハッとするのである。左には方丈の南庭が広がり、そこに存在する大きな石を用いた石組に先ず目が引かれてしまうが、その反対側に目を向けると、そこに広がる狭い空間の中には、反対の南側に見えている空間とは大きく異なる、まさに南側に見えてくる空間が「動」な構成だとすれば、まさに徹底的に省略した「静」の世界を表すかのような構成となっている。
東庭の表しているものは星座の「北斗七星」である。それを円柱、白川砂、苔、背後の二重生垣のみによって表現している。
北斗七星を表す円柱は、山内にある「東司」で使用されていた礎石で、東司の解体修理をした際に、余材として出てきたものである。早い話が廃材であるが、禅の世界では「一切の無駄をしない」という厳格な教えがあり、そこからこの材料を使用して欲しいという、当時の執事長であった爾以三師からの要望を受けて、円柱を天空に浮かぶ星として表現したのである。この円柱を使うという手法は、明治時代~昭和初期にかけて、京都を中心にして活躍した第七代小川治兵衛の有名である。小川治兵衛は、三条大橋や五条大橋で使われていた橋脚を払い下げ、それを使って平安神宮に「臥龍橋」と称して、池に沢飛石のような形で据え、それがあたかも龍の姿に見えてくる面白さを、円柱を使って表現している。さらに池の護岸やまた陸地部分に、伝統的な石組工法と同様に三本の円柱によって石組をするなど、当時としては画期的な手法を考え出して意匠しているのである。これはみれいは実測調査によって詳細に調べていたことから、東福寺で円柱を使用して欲しいという願いがあった時は、その使用方法に相当な産みの苦しみがあったといってよいであろう。
しかしそこは、多数の古庭園を実測調査によって得た厖大な情報と、さらに243庭の古庭園を取り上げた「日本庭園史図鑑 全26巻」を上梓した直後だけに、さまざまな古文献などを読破した結果、日本庭園と四神相応の繋がりが深いことを知り、そこから星座を用いることによって、先ず日本庭園史上初めての星座表現した手法となったのである。しかも星は必ず東から昇っていくこと、そして北斗七星は四神相応と深い関係があること、さらに小川治兵衛のおこなった伝統的な石組手法とは異なる表現方法で用いることができたことなど、すべてにおいて新しい手法を盛り込めたことは、まさに三玲の蓄積してきた庭園に対しての、新しい提示であり、しかもそれがすべて伝統に則った範囲の中で構成されたということも、まさに三玲らしい設計系になったといってよいであろう。
本庭の七石の高さは、高・中・低のバランスを考えたリズミカルな構成となっている。北斗七星自体の星の明るさは、ほぼ同等の明るさであるために、ここで表現されたことは、実際の星の明るさによる高さの違いなどではない。逆に考えると、三玲の設計の中で、そのような具象的な方法を用いることは考えられず、まさに意匠的な創意工夫によって生み出されたと考えてよい。
背後には、二重生垣によって書院との仕切りを設けている。この二重生垣の手法も、大徳寺本坊庭園、孤篷庵方丈前庭などに用いられている手法が取り入れられ、ここでも古典的な構成を用いていることがわかる。
日本庭園の中において、星座表現という大胆な構成が取り入れられたが、これも単なるデザイン的なことや、思いつきだけでおこなったのではなく、伝統を知り尽くした、とても思慮深いところから生まれた、まさに新しい伝統の始まりといってよいのではないだろうか。