縁起 東福寺の歴史

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創建と歴史

摂政九條道家が,奈良における最大の寺院である東大寺に比べ,また奈良で最も盛大を極めた興福寺になぞらえようとの念願で,「東」と「福」の字を取り,京都最大の大伽藍を造営したのが慧日(えにち)山東福寺です。嘉禎2年 (1236年)より建長7年(1255年)まで実に19年を費やして完成しました。

イメージ図工事半ばの寛元元年(1243年)には聖一(しょういち)国師を開山に仰ぎ,まず天台・真言・禅の各宗兼学の堂塔を完備しましたが,元応元年(1319年)、建武元年(1334年)、延元元年(1336年)と相次ぐ火災のために大部分を焼失しました。

延元元年8月の被災後4ヶ月目には早くも復興に着手し,貞和3年(1346年)6月には前関白一条経道により仏殿の上棟が行われ,延元の火災以降実に20余年を経て,再び偉観を誇ることになりました。建武被災の直前にはすでに京都五山の中に列せられていましたから,再建後の東福寺は完全な禅宗寺院としての寺観を整えることとなりました。

 仏殿本尊の釈迦仏像は15m,左右の観音・弥勒両菩薩像は7.5mで,新大仏寺の名で喧伝され,足利義持・豊臣秀吉・徳川家康らによって保護修理も加えられ,東福寺は永く京都最大の禅苑としての面目を伝え,兵火を受けることなく明治に至りました。

 明治14年12月に,惜しくも仏殿・法堂(はっとう),方丈,庫裡(くり)を焼失しました。その後,大正6年(1917年)より本堂(仏殿兼法堂)の再建に着工,昭和9年(1934年)に落成。明治23年(1890年)に方丈,同43(1910)年に庫裡も再建され,鎌倉・室町時代からの重要な古建築に伍して,現代木造建築物の精粋を遺憾なく発揮しています。また,開山国師の頂相,画聖兆殿司(ちょうでんす,明兆)筆の禅画など,鎌倉・室町期の国宝・重要文化財は夥しい数にのぼっています。

開山 聖一国師

イメージ図円爾弁円(えんにべんえん)といい,三井園城寺の学徒として天台の教学を究め,のち,栄西(建仁寺開山)の高弟行勇・栄朝について禅戒を受け,嘉禎元年(1235年)34歳で宋に渡り,在宋6年,杭州径山の無準の法を嗣ぎ,仁治2年(1241年)7月に帰朝しました。

 まず筑紫に崇福・承天二寺を建てて法を説き,名声は次第に国内に及んで寛元元年(1243年)には藤原(九條)道家に迎えられて入京,道家に禅観密戒を授けました。次いで東福寺開山に仰がれ,同4年(1246年)2月には山内の普門寺を贈られて常住しました。

 その後,宮中に宗鏡録を進講し,後深草天皇の勅を奉じて,京都岡崎の尊勝寺,大阪四天王寺,奈良東大寺などの大寺院を観閲し,また時には延暦寺の天台座主慈源や東大寺の円照らを教導したので,学徳は国中に讃えられ,遂に建長6年(1254年)には幕府執権北条時頼に招かれて,鎌倉の寿福寺に住することとなりました。

 翌7年6月,一条実経の東福寺落慶供養にあたり帰山,爾来東福寺に住し,弘安3年(1280年)10月17日79歳で入定(にゅうじょう)しました。聖一国師の号は花園天皇より贈られたもので,日本禅僧最初の賜号です。

 中国(宋)より帰朝にあたっては多くの文献を伝え,文教の興隆に多大の貢献をしましたが,また水力をもって製粉する器械の構造図を伝えて製麺を興し,今日,わが国最大のお茶の生産地となった静岡茶の原種を伝えたことも見逃せない功業です。