東福寺本坊庭園のご案内
西庭(井田の庭)について
西庭の大市松模様「井田の庭」は、日本古来から伝えられてきた伝統的な市松模様を、サツキの刈込と葛石の使用によって表現した。
この西庭の意匠は、北庭と同様に、この本坊内に使われていた材料で、敷石の縁石(カズラ石)を再使用してできあがった意匠である。カズラ石や板石は、素材は天然であっても、人が細工してできた材料であり、しかも直線であるために、敷石などの歩く場所などに使う際には好適な材料であるが、自然の山を模した築山や石組、樹木などを植えたところに使うのには、難しいというよりも、通常の庭造りでは考えられない材料であるといってよい。それでも使用しなくてはならなかったことから考え抜いた末に辿り着いた答えが「市松」だったのである。市松は日本の伝統的な紋様であり、桂離宮内の松琴亭の襖や床に使用され、また修学院離宮などの茶席の腰張りに使用されたりなど、雅な文化の中において使用されていたことがわかる。また東福寺山内においても、通天橋を渡りきった奥に普門院(開山堂)内の枯山水部分に、綺麗に描かれた市松の砂紋があり、これを三玲は昭和13年2月に実測していることから、この砂紋による市松の美にも引かれていたことが、彼の記述したものに残されている。しかも普門院内の砂紋の描かれている地割を見てみると、明らかに西庭と北庭部分の地割との関連性があり、ちょうど設計に取りかかる直前でもあったために、普門院の市松砂紋からの影響が最も大きかったといえるのではないだろうか。しかも普門院は、東福寺の開祖である円爾弁圓師であるために、より一層、本坊内においての作庭に用いたと考えるのが本筋ではないだろうか。
ここの地割も斜線上に市松を組み、北側の小市松模様に連続して繋がっていくことを意図して設計されていることがわかる。それをサツキの刈込と白川砂との、はっきりとした色のコントラストを持って表現し、さらに作庭された当時の写真を見てみると、サツキの高さが縁石から3cmほどしか出ていないために、現在とは異なって、大きな市松模様に見えていたのである。そしてそれを斜線上に北側に結びつけていることから、現在のサツキが高くなってしまったものと比較すると、大きく異なっていることがわかる。
またこの西庭の南西の角に自然石で三尊石組があるが、これは東庭の北斗七星による七石、京都五山の五つの山と組み合わせると「七五三」になっていることがわかる。しかも、何れも素材異なる七五三という手法も、それまでの古典庭園にはない手法であるために、七五三表現でさえも、三玲による新しい提示があることがおもしろい。そしてこの事に関しては、彼は一切の記述をしていないために、まさに現場と図面を見ることによって初めて気がつくように配置されており、庭園とは単に観賞するだけではなく、まさに思惟することを求めていることが、本庭が、単にデザインだけを追い求めた新しい庭作りをするという単純な形態ではない、まさに禅的な意味合いを深く持たせた庭園であることがよくわかる。